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プロジェクト終了のご報告と御礼
- この度は【當麻寺中之坊庭園「香藕園」修理プロジェクト】へのご支援、誠にありがとうございました。
中之坊庭園は令和6年度より5か年に及ぶ大規模修理が必要ということになってしまいましたが、初年度より資金が不足し、先行きを心配しておりました。しかし今回のクラウドファンディングをきっかけに多くのみなさまにご支援をいただき、クラウドファンディングを通しては目標金額の75%、それ以外に直接のご寄進も多く寄せていただき、あわせますと目標金額を大きく上回るご厚意を寄せていただきました。
おかげさまで5か年のうち2年分以上の資金を確保することができ、計画通りに修理事業を進めていけそうでひとまず安堵しております。
心より感謝申し上げます。
5か年の事業ですので道のりは遠く、先のことを思えばまだまだ厳しく不安な状況ではありますが、皆さまのお力添えに励まされながら、しっかりと守るべきものを守り、伝えるべきものを伝えていかねばならないとあらためて思いを強くしているところでございます。
そして庭園の修理が成った暁にはぜひ當麻の里にお立ち寄りいただき、大和三名園の一と賞された庭園の美しさと片桐石州の遺した創意工夫を体感していただければと思います。
今後とも當麻寺および中之坊の護持・運営に御支援、ご協力を賜わりますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
合掌
當麻寺 中之坊第五十七世貫主 松村實昭 拝 -
當麻寺中之坊 貫主:松村實昭師ご挨拶
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蓮・睡蓮の華が美しい池泉回遊式庭園を、後世に守り受け継いでいくために。
- 當麻寺中之坊庭園「香藕園(こうぐうえん)」は、安土桃山時代(桃山期)に作庭され、さらに、江戸時代初期に第四代将軍家綱の茶道指南役であった茶道石州流の祖・片桐石州(片桐貞昌)によって、現在の姿に改修されました。
「藕(はす)香る園」の名のとおり、蓮や睡蓮の華が美しい池泉回遊式庭園の内庭と、山の斜面に造園された外庭が低い築地塀(ついじべい)で区切られ、奈良時代に建立された三重塔「東塔」〈国宝〉を借景とした名庭です。
大和の三名園の一つに数えられ、昭和九年(1934)、国の史跡・名勝に指定されましたが、経年劣化により、池水漏れ修理や池水路整備、土塀・石組の修復、植栽整備など、大規模な改修が必要となりました。 -
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- 當麻寺中之坊では、令和六年度(2024)から5年の歳月をかけて大規模改修を計画しています。しかし、莫大な工事費用がかかるため、国・奈良県・葛󠄀城市の助成金に頼りながらも、まだまだ資金が及びません。
この貴重な庭園を後世に守り受け継いでいくために、皆さまの本プロジェクトへのご支援を何卒よろしくお願い申し上げます。
合 掌
當麻寺中之坊 貫主 松村實昭 -
<応援メッセージ>株式会社ツムラ様
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中将姫ゆかりの史跡を後世に守り受け継ぐ
- 弊社株式会社ツムラは、明治二十六年(1893)、「中将湯本舗 津村順天堂」として東京日本橋で創業いたしました。以来130年間に渡り、和漢婦人薬『中将湯』は、多くの皆様にご愛顧いただいております。
創業者である津村重舎は、奈良県宇陀郡伊那佐村(現在の奈良県宇陀市)の出身であり、母方の実家である藤村家(宇陀郡榛原町)は、藤原氏の家系であったことから、藤原豊成の娘である中将姫様が、生家を出て最初に身を寄せた先であると言われています。その後、中将姫様は當麻寺に入り、仏道修行の傍ら、人助けになるとの教えのもと、薬草や薬方の知識を身に着ける間も往来があり、中将姫様からお伝えいただいた薬方は、藤村家の家伝薬として子孫代々に受け継がれました。この家伝薬は施薬として人々に配られ、たいへん喜ばれていたようです。
津村重舎は、幼い頃からこの薬の卓効を見聞きしており、「中将湯は奈良朝時代の祖先より伝来の婦人薬にして卓絶の偉功あり。世の斯病者を救済するは社会公益の一端にもなりて意義ある事業なり」と確信して、婦人科の医学博士佐伯理一郎先生による処方改良により誕生した中将湯を、日本全国へ広めるべく事業に邁進しました。
「漢方のツムラ」としての事業の原点は、まさに和漢婦人薬『中将湯』であり、中将姫様の御恩に感謝し、御恩に報いるべく、「自然と健康を科学する」という経営理念のもと、日本の伝統医療である「漢方」を通じて、人々の心と体の健康に貢献すべく事業に専念いたしております。
この度、中将姫様ゆかりの史跡である當麻寺中之坊庭園の老朽化が深刻であることを知りました。何世紀にも渡り、風雪に耐え、自然災害等を乗り越えて来られた當麻寺中之坊様の歴史的価値のある文化財や建物、景観は、後世に受け継がれていかなければなりません。これから庭園「香藕園」の池水まわりの修理・整備から始め、五年間に亘り工事が行われます。
中将姫様ゆかりの史跡を守り受け継ぐための「クラウドファンディング」が立ち上がります。ご賛同・ご支持くださる方々のお力で、後世に守り受け継がれますことを心より祈念申し上げます。
株式会社ツムラ 代表取締役社長CEO 加藤照和 -
<応援メッセージ>さだまさし様
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大好きな不思議の寺・當麻寺。中之坊の名庭園を守るために
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- 折口信夫の小説「死者の書」の舞台としてよく知られた當麻寺中之坊の歴史的名庭園、「香藕園」修復の為のクラウドファンディングが始まったと聞き、精一杯の応援をしようと思っています。
僕の大好きな當麻寺は誠にたくさんの不思議に満ちた名刹です。珍しい「真言宗と浄土宗の並立寺」とされています。並立とされたのは南北朝以後のことらしく、その経緯も謎ですが、どうもこの寺の代名詞と言われる、中将姫伝説で名高い「當麻曼荼羅」にあるようです。その「當麻曼荼羅」そのものもまた深い謎に満ちています。
謎は他にも沢山あります。例えば日本のお寺の梵鐘が「形式化」されるよりずっと以前に作られた梵鐘が存在しますがこれも謎です。そして何より、奈良・平安時代に建立された三重塔、東塔・西塔が二棟とも現存している日本で唯一のお寺なのです。そうです當麻寺は開創1400年とされるほどの、日本でも屈指の古刹なのです。
是非ともこのお寺の素晴らしさを、是非ご自身で一度ご覧になってください。當麻寺を通して日本の歴史に思いを馳せ、ご自身の目と感性でどうぞ歴史の不思議さとゆっくり向かい合ってください。掘れば掘るほど深く、探せば探すほど遠ざかる奈良時代、平安時代の歴史の面白さと向かい合ってください。日本にとって、とても大切な不思議の寺、當麻寺の美しい名庭園がピンチです。どうか文化を守るためにもあなたのお力をお貸しください。
このお寺の宝物は沢山ありますが、僕にとっては「陀羅尼助」の力があります。日常生活でも健康の元、個人的にですが必携のお薬なのです。中之坊にはご住職の子供の頃まで「陀羅尼助」が製造されていた大きな釜があります。これは僕の個人的重要文化財です。
また、香藕園の修復ののち、稲荷社の屋根替え、中将姫掛け軸の修復と、5年がかりの困難が待ち構えていますが、何卒お力添えをいただき、この名刹を守り、支えたいと思います。
どうぞご協力をお願いいたします。
さだまさし拝 -
中之坊庭園「香藕園(こうぐうえん)」について
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庭園、書院、茶室「丸窓席」。後西院をもてなした茶人・片桐石州のこだわり。
- 国指定の史跡・名勝である「香藕園」は、桃山期に作庭された庭園を、江戸時代に大和小泉藩主で茶道石州流の祖・片桐石州が、後西院(ごさいいん:第百十一代・後西天皇)の行幸に合わせて改修した庭園です。
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- 後西院(後西天皇)は後水尾(ごみずのお)天皇の第八皇子で、まだ幼かった異母弟(後の霊元天皇)が即位するまで中継ぎの天皇として即位しました。和歌・書道・茶道・香道に精通した天皇でしたが、在位中に伊勢神宮・大阪城・内裏の炎上、明暦の大火など災害が多発したため譲位を強いられた不運な天皇です。第五十三代・淳和(じゅんな)天皇(西院帝)に境遇が似ていたことから、後に「後西院」の追号が贈られました。
後西院の玉座が置かれていた書院(国・重文)の主室「御幸の間(みゆきのま)」は、「香藕園」の内庭を回遊しながら内観を見学できます。また、書院の一部の部屋では、お抹茶をいただくこともできます。 -
- 茶室「丸窓席(まるまどせき)」(国・重文)は、後西院をもてなすために石州が作った茶室で、直径約1.8mの大きな丸窓や小さな床の間、千利休が好まなかったといわれる竹材をあえて使うなど、石州の独創性が随所に見られます。
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當麻寺中之坊について
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『綴織當麻曼荼羅』伝説が息づく當麻寺。中将姫剃髪の地と伝わる最古の塔頭・中之坊。
- 當麻寺には、奈良時代の貴族、藤原豊成の娘・中将姫(ちゅうじょうひめ)が、當麻寺で出家し、五色に染め上げた蓮糸を用いて『綴織當麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)』を織り上げたという伝説が今も息づいています。その物語は、中将姫をモデルとした折口信夫(おりぐちしのぶ)の幻想的な小説『死者の書』でも知られています。
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- 當麻寺最古の塔頭・中之坊の剃髪(ていはつ)堂には、中将姫の守り本尊「導き観音(十一面観音像)」が祀られ、右手に持つ「五色ひも」で繋がって観音さまとご縁を結びます。また、霊宝殿には、日本最古の剃刀とされる「中将姫剃髪剃刀」など、中将姫ゆかりの宝物が展示されています。
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當麻寺の歴史と魅力について
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開創1400年、歴史の変遷を乗り越えてきた當麻寺。訪れる度に発見がある不思議な魅力。
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- 當麻寺の歴史は古く、推古天皇二十年(612)に聖徳太子の弟・麻呂子親王(まろこしんのう)が河内の地に建立した万法蔵院を起源とし、飛鳥時代後期(白鳳期)に修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)から當麻の私領の寄進を受け、本尊・弥勒仏を祀る金堂、講堂を建立したのが、現在の當麻寺のはじまりです。
奈良時代に入ってから東塔、西塔、中院(現・中之坊)など徐々に伽藍が整えられ、中将姫伝説で知られる『綴織當麻曼荼羅』が表されました。平安時代に密教文化が栄え、真言宗の大寺院に発展し、中世以降は『當麻曼荼羅』が注目されたことから曼荼羅信仰の寺として栄えました。このころに真言宗の當麻寺に浄土宗が同居するようになり、現在も二つの宗派の塔頭寺院で護持されています。 -
- 金堂(国・重文)の本尊・弥勒仏坐像〈国宝〉は日本最古の塑像、四天王立像(国・重文)の内の三体は日本最古の乾漆像です。土壇の須弥壇とともに飛鳥時代後期(白鳳期)に造られました。治承四年(1180)平重衡による南都焼討の戦火に遭いながらも奇跡的に遺された貴重な文化財です。
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- 中将姫が蓮糸で織り上げたと伝わる『綴織當麻曼荼羅(根本曼荼羅)』〈国宝〉は、損傷が甚大なため拝観はできませんが、この根本曼荼羅が安置されていたと伝わる、本堂(曼荼羅堂)の當麻曼荼羅厨子〈ともに国宝〉に室町時代の転写本『絹本着色當麻曼荼羅図(文亀本)』(国・重文)が本尊として祀られています。講堂には、本尊・阿弥陀如来坐像(ともに国・重文)をはじめ、平安時代~鎌倉時代初期に造像された仏像群が祀られています。本堂(曼荼羅堂)・金堂・講堂は「伽藍三堂」と呼ばれ、公開されています。
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- 三重塔「東塔」〈国宝〉は奈良時代後期、同じく「西塔」は平安時代の建築とされ、古代の東西両塔が現存するのは當麻寺だけです。一般的に九輪の相輪が八輪であったり、水煙の文様が東塔では魚骨、西塔では未敷蓮華(みぶれんげ・蕾の蓮)とあしらいが違ったり、飛鳥時代後期(白鳳期)に製作されたとみられる舎利容器が西塔の心柱(しんばしら)頂上で発見されるなど、謎が多い建造物です。
また、寺院の堂塔伽藍は南を正面に建造されるのが一般的ですが、當麻寺に南大門はなく、山門は東大門です。金堂と講堂は南向きに前後に並んでいますが、曼荼羅堂(本堂)へは東大門から入り東から西へと向かうので、前後に並んでいる金堂・講堂を左右に見ながら進むことになり、不思議な感覚をおぼえます。中世以降、信仰の対象が『當麻曼荼羅』へと変遷していく中で、寺院の向きも南向きから東向きに移っていったといわれています。
葛城・當麻は、役行者の最初の修行地で、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ修験の二大聖地といわれています。中之坊境内奥には、鎮守社として古代豪族・葛城氏が丹波の地で祭祀していた豊受大神(とようけのおおみかみ)を祀る稲荷社と、役行者が熊野から勧請(かんじょう)した龍神を祀る龍王社があります。 -
- また、中之坊に役行者の秘薬「陀羅尼助」の製法が伝わり、昭和時代初期まで精製していたことから、中之坊は「陀羅尼助」発祥の地といわれています。そして、當麻寺と當麻寺中之坊は、令和二年(2020)に認定された日本遺産『「葛城修験」−里人とともに守り伝える修験道はじまりの地−』の構成文化財となっています。
當麻寺は、牡丹(ぼたん)の名所でも知られ、各塔頭の裏庭に植えられています。中之坊の「ぼたん園」には約1,200株の牡丹が植えられ、毎年4月下旬~5月初旬の見頃には、たくさんの参拝者や観光客が訪れます。 -
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